ニホン英語は世界で通じる
ニホン英語は世界で通じる
こういう本は私はいつもなら絶対手に取らない。
インドやシンガポールとは違って、ニホン英語と言うものは存在しないと思っているからである。
この本を手にした唯一の理由は
ミスをしない人には3種類の人がいるという。それは、「まだ生まれていない人」、「死んだ人」、そして「何もしない人」だ。
と言う言葉が書かれているとして紹介されていたからだ。それだけだ。
ああそれなのに、文中では
ミスをおかす人には3種類の人がいるという。それは、「まだ生まれていない人」、「死んだ人」、そして「何もしない人」だ。
というとんでもないミスを犯していた。(89ページ)
なんと言うことだ。
気を取り直して話を戻すと、
私はインドやシンガポールとは違って、ニホン英語と言うものは存在しないと思っている。
日本でニホン英語が話されて、学校教育で教えられているわけでは無い。
ほぼ全ての日本人がアメリカ英語のネイティブ発音を理想としている中で、インドの学生の60.8%が「教養あるインド人の英語」を目標としているらしい。(148ページ)
しかるに、ニホン英語と言われたときに思い浮かべる英語は同じでは無いだろうし、それを目標とする人は決して多くない。著者の議論も「ニホン英語」の特徴として発音を指しているのか文法を指しているのかの区別がないまま続いていく。
かような構成の弱さは著者自身も認めていて、「『ニホン英語』は今に始まった新しい言語ではない。すでに古くから日本の歴史と文化の中で、先人たちが、あれこれと苦労しながらも、うまく使えるように育んできた体系的な言語であり、日本人らしい発音と文法を持った、無駄なくなじみやすい、"英語の日本なまり"なのである」(97ページ)と威勢良く言ったかと思えば、「日本人が使う英語がすべてニホン英語だとか.....いうつもりはない(129ページ)」と弱気である。
他にも「オイオイ」というところはいろいろあって、日本の英語教育(第二言語)における教師の役割と母語獲得の際の母親の役割を比較してしまっているところ(69ページ)とか、三単現のSなどの文法的正確性は不要だと言いながら、パターンプラクティスで三単現のSを習得すべし(166ページ)としている一貫性の無さとか。
そんなこんなの誤りやツッコミどころを乗り越えてもこの本が読み通してみたら面白かったというのは、この本の内容も若干あるが、そこから触発されていろいろ考えたということによる。
「ニホン英語」というものが存在しないとしても、それらしいものはある程度想像できる。特に発音はそうである。
著者はそれらの「標準的なニホン英語」を元に研究を行っている。
ラリー・スミス教授の研究によれば
(1) アメリカ人の英語は、アジアの人々にたいし55%の伝達率でしかないのに、(2) 日本人の英語は、アジアの人々に75%という高い伝達率で理解されている。(137ページ)とのこと。
これは興味深い。
もしそうなのであれば、ニホン英語の発音体系をしっかり作って教えることで、伝達率がさらに上がるのでは無いか。
日本人は「R」の発音が苦手だと言うが、大事なのは「L」と「R」を一貫して発音し分けることであり、ネイティブのような「L」と「R」の発音をすることではないからだ。
「ニホン英語」では「L」と「R」はこのように発音し分けられるということが共通理解になるならば(「L」と「R」の発音を分けないときと比べて)伝達率が上がるのは自明のことである。
考えていて面白かったのは、「ニホン英語」というものがあるとするならば、自分たちで新しく単語を作ることが出来るはずで、そうであるならば巷で評判の悪い「和製英語」も立派な「ニホン英語」の単語であるということだ。
また、
「十分にことばの間違いを犯してもいいという環境が与えられた学習者は、次第に間違いが少なくなって、言語システムの中に順応してゆき、定着することも分かった」(87ページ)については、いわゆる「化石化」の議論(とりあえず自分の用が足せるようになったらそれ以上上達しようとしなくなるので間違った英語のままで固まってしまう)はどうなのだろう。
しかし、仮に化石化が起きたとしても、気にすることは無いのかも知れない。
それ以上上達しなくても良いからそれ以上上達しなくなるのであって、それを化石化と呼ぶ人がいようが、本人にとってはどうでも良い話である。
気になるのは、「ニホン英語」を学んだ時に、或いは達成目標を低くしたコミュニケーション重視の英語を学んだ時に、実は自分は英語を極めたいという人にとってマイナスにならないかというその一点だけである。
変な癖が付いたので、それを直すのに大変な時間と体力がかかるというのであるならば、そのような人たちは学校教育で「ニホン英語」が教えられることに対して反対すべきなのであろう。