「different/違う」ということと、英英/英和辞典と
「different/違う」ということと、英英/英和辞典と
「米国人は他の人と違うことに価値を置き、日本人は他の人と同じであることに価値を置く」というようなことをあちらこちらで目にしてきたような気がします。
英語の different と言う単語は、「同じではない」という意味で、そこに「良い/悪い」の判断は入っていないと思います。
ところが、それを日本語訳したときに、「違う」とか「異なる」という訳語を当てた場合には、
「違う」->「間違い」
「異なる」->「異物」->「排除すべきもの」
という風に勝手に展開してしまい、英語の時には持っていなかったニュアンスが付け加わってしまうおそれがあると感じました。
それは、漢字が持っている強い意味によるものかも知れません。
(それだからこそ漢字交じりの日本語が早く読める/読みが分からなくても意味がつかめるのですけれど)
異国/異人という字を当てたときに、外国人排斥運動は予測できたのかも知れません。
以前、村上春樹の「海辺のカフカ」を英語で読み、その後に日本語でパラパラ見たら当てられていた漢字(登場人物の名前や地名など)が私の印象と大きくずれて感じられたことがありました。
当時の記事はこちら
http://shibutora.g.hatena.ne.jp/shibutora/20061213/1166016708
漫画で読んでいたアニメのキャラクターがテレビ化された時の声に対する違和感のような。
そのくらい漢字は強い意味を発しています。
そこからフラフラと考えが流れていったのは辞書のことでした。
世の中には(英語で言えば)英英辞典派と英和辞典派がいて、私は英和辞典派でした。(少なくとも昨日までは。今日からどうするかはまだ悩んでいます)
「どちらであっても、単語の意味領域の中のいくつかの座標の点を羅列しているに過ぎず、多読によってその間を埋めて意味領域の範囲を確定していく作業で、できあがりには差は無くなる」というのがこれまでの私の主張でした。
ところが、漢字の持つ強い意味、或いは英和辞典の記載された訳語の持つ、別の意味の影響が大きい場合、英和辞典に基づいて置かれた座標は、ひょっとしたら単語の意味領域の外に出てしまっているかも知れないと考え始めました。
もちろん、英和辞典を引くときは、一番の語義/訳語から最後の方まで一通り読んで、読み終わったら一旦全てを忘れてもう一度英語に戻るというアプローチを取ってきたので、あまりハズレは無かったと思っているのですが、やや不安になりました。
英英辞典への移行についてしばらく考えてみたいと思います。
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