消費としての英語
消費としての英語
来週のメルマガ用に読んでいるのは、「超」英語法 (講談社文庫)です。
経済学者らしいと思ったあとがき
今度のアメリカ滞在から帰国した後は、仕事で英語を使う機会はあまりないだろう。だから、投資としての勉強はあまり意味がない(少なくとも、若いときに勉強したような意味はない)。しかし、勉強そのものが面白くてたまらない。これは、「消費」としての勉強である。(第7章「わたしは英語をどう勉強してきたか」)
結局のところ我々の多くにとって英語/外国語学習は消費なのかも知れません。
本来であれば英語学習も投資としてとらえ、投入する時間と金額に見合うだけのリターンを得られると思わなければそもそも始めてはいけないのでしょう。
消費であれば、英会話学校に行くのはカラオケボックスに行くのと同じことで、自分の歌に酔うのと同じように、ネイティブ講師と会話している自分に酔うのでしょう。
消費としての英語が良くないというのではなく(私もカラオケ好きですし)、投資のつもりが消費になっていても気づかず、気にせず、本来なら、投資前、投資の最中、投資のあとに厳しく評価されるべき結果が、吟味されぬまま流されているところに問題があるのでしょう。
かく言う私の外国語学習も限りなく消費に近いのですが。
たまに若い女性に「すごーい!」と言ってもらうのがリターンだと言うことではあるのですけれど。
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