若者の「ら」抜き言葉について
若者の「ら」抜き言葉について
先日読み終えた「27人のすごい議論」に、金田一春彦さんの「ら」抜き言葉の効用のコメントを発見しました。(『日本の論点1994』の記事からの引用)
(ここから)
言葉というものは、違った意味のことは違った言い方をした方が、話し手の意思がはっきり相手に伝わっていい。しかだって、受け身のときも可能のときも同じ言葉を使うよりは、受け身は「見られる」「来られる」、可能は「ら抜き」を使って「見れる」「来れる」と言った方が聞き手にはわかりやすいはずである。
じつは、江戸時代、これとよく似た言葉の変化が起こった。現在では、取ることができる、切ることができるということを「取れる」「切れる」と言い、受け身の場合は、「取られる」「切られる」と言うが、江戸時代より以前には、どちらの意味のときも「取らるる」「切らるる」と言っていた。大阪あたりでは、現在も、取ることができない、切ることができないという意味で「取られへん」「切られへん」と言うが、これはその名残である。(273ページ)
(ここまで)
ということで、既に「ら」抜きとなった言葉が定着しているという話でした。
「来れる」については、「明日、来れますか」は私はあまり違和感がありません。
ひょっとしたら、「持てる」(可能)と「持たれる」(受け身・尊敬)についても、昔は一緒だったのでしょう。
日常語の中にまだ古語がたくさん残っているうちの田舎では、「おぼとて持たれん」(重たくて持てない)という風に、可能を「持たれる」の形でまだ使っていますし。
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