語楽カフェ

趣味としての外国語学習

2010-05-23

日本通訳翻訳学会第27回例会 参加メモ (その1)

 

行ってまいりました。

http://blog.goo.ne.jp/teki-mizuno/e/6b5ae3396df7e3f46930b39d8c1ed5ba

 

学校英語的な訳読が(大人の間では)非難されている中で、今の学校英語教育でどのような授業が為されているかも知らない中で、ボンヤリ私が考えていたことは次のようなことでした。

 

 

1. 訳読の定義がボンヤリしている中で、「訳す」ことについての評価が低すぎるのではないか。

 

・学校英語での訳読でイメージされる「単語逐語訳」->「語順の変更」->「日本語での理解」という漢文的理解

 

・翻訳で行われる外国語を外国語のまま理解(直読直解)し、しかる後に日本語に訳出

 

・上の二つ(あるいはもっと他の種類)の「訳すこと」の違いが意識されず、ごっちゃになって批判されているのではないか

 

2. 外国語理解度チェックのツールとしての(英文)和訳の限界

 

・その人のインプット(読む/聞く)理解度を測定/テストするのにはその人にアウトプット(書く/話す)してもらってそれを評価するしかない

 

・評価しようにも外国語でアウトプットするのは初学者には難しいから母語に訳させて評価するしかない。

 

・教師は(評価の際には)訳出物にのみ興味があって、途中が逐語訳になっているか直読直解+日本語訳出になっているかは気にしていない。よってそのプロセスについて指導もしない。

 

・「原文理解が正しくなければ訳文はおかしくなる」は正しいが、訳文がおかしい場合に原文の理解が間違っているのか日本語の表現力に問題があるのか、あるいはその組み合わせかの切り分けができない。

 

 

例会での発表の内容は上の問題意識にピッタリ答えるものではなかったですが、いろいろ興味深い話がありました。

 

水野先生の発表からは実際に漢文のように返り点を付けたテキストなどの提示があり興味深かったです。

 

自分に気に入ったところだけピックアップすると以下の通りです。(「->」の後は私のコメントです )

 

・浦口文治の提唱したグループメソッドに対する批判「文章全体を理解できない初学者にとっては、所詮グループ・メソッドは絵に描いた餅に陥る可能性もある」(庭野吉弘(2008)「日本英学史叙説」(研究社))

 

-> 文の構造理解の際に「意味の塊で文を区切れば意味が良く分かりますよ」というのは「文の意味が分からないのでどこが塊か分かりません」という意味では何も言っていないのと同じことだということですね。

 

佐藤秀志(1970)「読解力」「理解したかどうかを確認するための日本語なら、完全なものでなくてよい筈である。いわゆるこなれた訳文は英語教育では二次的なものである」

 

-> まさしく私の思っていたことなのですが、実際の採点の現場ではどうなっているのでしょう

 

安井稔(1988)『英語学と英語教育』(開拓社) 「訳読とは直読直解の状態をまだ達成していない者のための補助線」

 

-> 多読の掲示板などで直読直解か訳読かという二者択一の議論が何度も起きるのですが、そこに欠落しているのは時間の概念。

自転車の補助輪のように助走の段階では訳読による学習が必要であるということ。

しかしながら、学校教育の限られた時間の中では離陸するまでに至らず、結果的に補助輪をつけたままで卒業してしまう。補助輪が取れていないことをもって学校英語教育が批判されている。

 

伊藤和夫

-> 水野先生の発表では好意的に取り上げられていた印象。

英語長文読解教室(研究社)」など受験参考書であるが、購入を検討。

 

・水野先生

->「なぜ訳読か?」について語彙レベルでのモデルをご紹介いただきましたが、訳読を考える際の文法レベルについてどう考えるかもお聞きしたいところ。後半の「Cowanモデルの制約」においても「文法的解析が自動的であることが要求される」とありますし。

 

 

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日本通訳翻訳学会第27回例会 参加メモ (その2)

 

ということで、その2です。

 

後半は山岡洋一先生の「翻訳教育の一モデル」。

 

  

翻訳の学習効果については、先生の翻訳通信のバックナンバーにもでてきた話題です(http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/)。(というのは家に帰ってからネット検索して発見したわけですが、発表者について事前調査をせずに参加したことについて反省しているところです)

 

面白かったのは翻訳スタイルの変更(「翻訳調」から「新しいスタイル」への移行)についてでした。

 

翻訳調というのはこなれていない訳文なのではなく、当時の「原書を読む読者のために、原文の語句や構文を決められた訳し方で訳す」ものであるのに対し、新しいスタイルでは読者は原書は読まないというところから、アプローチの大きな違いが出てくると言うことです。

 

現在でも哲学等の分野においては翻訳調でなければ評価されないという話は興味深かったです。

 

最近読んだ「日本辺境論 (新潮新書)」に以下の記述がありました。

 

フィリピンは二重言語国ですが、、知的職業の公用語は英語です。母語は生活言語としては残っていますが、それで例えば国際政治や哲学を論じることはできない。そのための語彙が彼らの母語には存在しないからです。ですから、英語のできないフィリピン人は知的職業に就くことができない。(239ページ)

 

これを思うと外国の新しい知識を母語に訳してくれた翻訳の役割にいくら感謝しても足りないというわけです。

 

もう一つ興味深かったのは有名大学で英語を学ぶ学生も文法知識が不十分で、それは学校教育で文法を教わっていないとか、「コミュニカティブアプローチで英語を学んだので文法はやっていない」という話でした。

 

コミュニカティブアプローチの欠陥を補うためのFonFによる文法知識の指導が為されていないということでしょうか、コミュニカティブアプローチの前提とされる大量のインプットが不十分でインプットの中から文法知識を発見するに至っていないということでしょうか。

 

そんなに文法って毛嫌いされているのですかね。

 

 

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