多読クラス
多読クラス
近所の公立高校で多読講習の一般公開をやっているというので、会社を休んで妻Rと見に行きました。
期待通りのゆったりとした講習で、我々も置いてあった本を読みました。
(Curious George のシリーズは初めて読みましたが面白かったです)
終わってから担当の「ひめ先生」といろいろお話しさせていただきました。
予算面から本を揃えていくのが一つのハードルになっているということでしたので、私も読み終えた本を寄贈しようと思いました。
(高校生にはふさわしくないムフフな本は先生方に)
それはそれとして。
昨日読み終えた「英語の新しい学び方 (講談社現代新書 (52))」に、以下のような話がありました。
学生に「horse」とは何かと聞いたら、「馬」と答えるのだが、英語で説明してくれというと下を向いて黙ってしまった。
だから英語を読む時には日本語に訳すのではなく、英和辞典ではなく英英辞典を使うべしという流れになっていくのですが、これはちょっと違うかも知れないと感じました。
英語で説明できない時に、日本語でも説明できないことがそもそもの原因になっていることがありますので、ここでもまずは日本語で「馬」を説明するというステップを踏めば、この学生も「四本足の動物」ということぐらいは英語で言えたと思います。
通訳案内士(ガイド)試験を英仏伊語で受けていた時も、日本的事象をそれぞれの言葉で説明する練習をするのではなく、(日本語で)きちんと理解することを目指していました。
その頃には、「日本語で言えることなら、英仏伊語で言える。たとえぴったりの単語を知らなくても、説明が長くなるかも知れないが伝えられる」という自信ができていました。
その意味では、horse を英語で説明する必要があるから英英辞典が必要になるのではなく、それは多読のテキストの一つとして、切れ味の良いこなれた表現の集まったものとしてとらえるのが正しいような気がしています。
もちろん、塩谷紘さんが「独りで学べる英会話」で説いた勉強法や、松本道広さんが学習初期から英語で書く努力を行って「これで何でも言いたいことは自分の言葉で書ける」と自信を持ったということなどを否定するものではないのですが、無条件に英英辞典が良いとする風潮は疑問です。
(私自身が英英辞典を使っていない/使いこなせないということからその裏返しで批判的になっているのかも知れませんが)
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