語楽カフェ

趣味としての外国語学習

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マークピーターセンの「続 日本人英語」を読み終わりました。

最後の章の最後のところから少し長いですが引用します。

英語の感覚を自分のものにする

日本にいながら英語の感覚に馴染むことは、年齢を問わずに十分にできると思う。必要なのは没頭することだけである。私の経験で言えば、本人にとって心から夢中になれる内容さえあれば、どのような英語を対象にしても構わない。シナリオ付きのビデオ映画にしても、現代小説にしても、ミュージカルの歌詞にしても、とにかく本当に夢中になれば、後はどれだけ時間を積み重ねるかという問題だけである。

その際に、その英語英語としてあるがままに読むことが大切なことだろうと思う。文法書や辞書の大切さは今さら言うまでもないし、私自身、毎日相変わらずお世話になっているが、本当に自分の体の一部とするためには、単に、日本語にどう訳すかという以前に、その表現の内側に入り込むことが必要だろう。それは、なぜこの表現になっているかの鍵は、文法書や辞書の中にあるわけではなく、その英語自身の中にあるからである。そうでなければ、いまほどはすぐれた文法書や辞書のない時代に、たとえば夏目漱石が書いたようなきちんとした英語が生み出されたはずがない。

ビスケット紅茶の中に突っ込むと、どんなに硬くても必ず紅茶を吸収する。変なたとえではあるが、人間言葉も同じ関係ではないだろうか。『勉強』のつもりならば、努力しても心の『突っ込み』にならないうちに終わるが、自分に嘘をつかずに、本当に心から面白いと思っている内容の英語に没頭すれば、その英語は必ず自分の体の一部となるのである」(181-182ページ)

このような結びの言葉となっています。

まさしくその通りだと思います。

より良い外国語学習法を求めて―外国語学習成功者の研究

においても、結局のところは本人のやる気が一番と書いています。

語彙については私は文脈で覚えていくタイプですが、辞書を引いたときはその単語の意味を上から下までざっと読んだら(極端に言えば)それらを一旦忘れて、言葉ニュアンスを肉付けしていく作業に入ります。

連続した「意味」のつながりである英単語部分部分日本語に切り出しただけの辞書ですから、その部分部分を吸収したうえで、その間に落ちている部分を埋めていくという作業が必要になるわけです。

あとがきの中でさらに、

「前著は日本人は『読む』のは得意でも『書く』のは苦手という前提から出発したが、その前提を疑ってみたらどうか、というのがこの続編を書くきっかけであった」(184ページ)

とあります。

文法・講読中心の学校英語教育を受けた日本人の読解力が他のアジア諸国の人たちと比べても優れていないということはこれまでも言われてきました。

それよりも、前著およびこの本を読んで、私自身がいかにしっかり読んでいなかったかを思い知らされました。

仕事柄、読む文書は実務文書に集中しており、そこでは不定冠詞か定冠詞か、そのニュアンスの違いはなどと考える必要はありませんし、書く側もそこに誤解が生じないように配慮しています。

フランス語をやっていて特に感じているのが、冠詞の使い分けが難しいという点。

読むときはニュアンスの違いを気にしないのでそのまま受け取っていますが、自分では使い分けられません。これはすなわち、正しく理解していないということです。

文芸作品を、冠詞の使い分けにまで降りていって精読する作業の必要性をますます感じさせられた本でした。


続・日本人の英語