2006-05-28
数学の公式と外国語の文法
まだ読んでいます。「勉強法が変わる本」。
4章は、数学の問題の解き方について書かれています。
少なくとも大学受験の数学の問題においては、それまで学んだ公式/解法のパターンをうまく当てはめられるかどうかというのがポイントです。
そこでは、使いこなせる公式/パターンが多ければ多いほど、それが自在に使いこなせるほど、問題は容易に解けるわけです。
それは将棋の棋士が、多くの定石、棋譜を記憶しているようなものでしょう。
そのような話を読んでいると、外国語の文法/ルールのようなものだなぁという気がしました。
知っている文法/ルール/熟語/成句などなどが多ければ多いほど、かつそれらが使いこなせて自分のものになっていればそれだけ、外国語を容易に理解できるということです。
数学の問題の山を前にして、公式を知らずに問題をたくさんこなして、その中から公式/ルールを発見するというのは、あまりに非効率な話です。
文法礼賛、あるいは文法全否定。どうして二項対立(dichotomy)のアプローチになってしまうのでしょう。
文法はあくまでも現実の使用を観察して法則を記述したものに過ぎませんから、それがすべてだと思っては危険です。
一旦文法をしっかりやった後、頭の隅に押しやって、現実社会の使い方を観察して微調整していくというアプローチが重要だと思います。
君の外国語は言葉ではない。記号だよ
ちょうど2年くらい前に、大学で私がイタリア語を囓った際に強い印象を与えた西本先生に再開したのですが、その際に、「君の外国語はことばではないよ。記号だよ」と言われました。
西本先生は、ダンテが読みたくてイタリア語を始められたので、私のように言葉の持つ豊かな魔力/可能性を捨象して、「売った、買った、いくら」でしか言葉をとらえない態度が(文学部での教え子としては)残念なことだと思っていらっしゃるのでしょう。
もちろん私もそこまで極端ではないですし、時間が許せばそちらの方面にも首を突っ込んでみたいとは思っているわけですが。
その返事をお葉書でいただきました。
「記号だけの語学じゃなくて、人間の表現の幅の拡大に繋がる語学を !!」
というメッセージをいただきました。
人間の表現の幅が拡がっているかどうかはわかりませんが、最近お腹のあたりの幅は拡がった気がします。