2007-03-24
こども式シャドーイング
こども式(耳→口式)のシャドーイングに於いては、文字も意味も存在せず、音だけです。
そこでは「正しい音/間違った音」とか「きれいな音/汚い音」という評価の入り込む隙間もなく、全ての音は平等です。
そうであるならば、米語が聞こえてくれば米語でシャドーイングを行い、南部訛り英語なら南部訛り英語でということになります。
多くのタイプの発音を聞くのに慣れ、それを発音できるようになるという目的は達成されるかも知れませんが、自分の音の体系を作り上げていく過程では、問題があるのではないでしょうか。
(物まねの上手な歌手が、自分流の発声が分からなくなっている状態)
また、単語や意味を介在させないことで、例えば同じ音をイギリス英語と南部訛り英語で聞いた時に、それが同じものであるという判断がつかないということはないのでしょうか。
酒井さんに聞いてみます。
國弘流 英語の話しかた その5
「意味を理解する」ということと、「日本語に訳す」ということを明確に分けて考えることが必要です。 (45ページ)
この基本的な事実を中学高校の英語の授業で教わった記憶がありません。
私は幸運にも受験勉強をしながら気がついたのですけれど。
当時FENと呼ばれていたラジオの米軍放送を聞くなどして、語順通りに理解する癖ができつつあったから気づいたのかも知れないのですけれど。
このブログで書いていますフィルター理論(或いはフィルターの喩え)を用いるならば明白です。
ご参考記事はこちら
http://blog.so-net.ne.jp/shibutora/2006-08-10
「学校英語は訳読、生きた英語は英語のまま理解」ということが良く言われます。
議論を簡単にするために、インプットについてのみ書きます。
上の対立構造は、「学校英語は英語のままの理解と、その後の日本語での訳出」と言い換えられるならば、解決する問題です。
受験勉強をしていた時は、英文和訳の問題もどんどん英語で理解していって、理解した内容を日本語で吐き出していました。
やっかいなことに学校英語教育ではこの二つが分けて意識されておらず、生徒にもそのような指導が為されていないのではないでしょうか。
結果として、「英語のまま理解」+「日本語への訳出」ではなく、「日本語に変換する」ことが読むことだと誤解されてしまいます。
ただし、これはこれで仕方のない部分があります。
英語のまま理解させたとして、それを評価するにはどうしたらよいでしょう。
きちんとインプットされたかどうかはアウトプットでしか評価できないのですが、そうは言っても中学高校のレベルでの英語でのアウトプット能力はまだまだ不十分です。
仕方なく、日本語で訳出させることで、英語での理解度の近似値を求めようとするわけです。
ところが生徒の方は、表面的な日本語への変換のテクニックに走ってしまうのです。
難しいですね。