2006-09-16
日本語に訳すと言うこと
分からないところは飛ばしながら、訳さずに、頭から読む。
これがSSSの説くところの多読です。
英語の習い始めならまだしも、どこかで訳読を止め、頭から読んで理解するように切り替えないといけません。
この方法の一つとして、SSSがあります。
私はおそらく高校での受験勉強のどこかで訳さずに読むというやり方にうまく切り替えられたのだと思います。
それはそれでよいのですが、そうは言っても、理解したかどうか周囲からは分かりません。
英語で質問しても良いのでしょうが。
というわけで、学校の試験ではどうしても和訳させてみて理解したかどうかを判定せざるを得ません。
読むときは頭から読んで理解し、試験用に和訳するときは、ちゃんと分かっていることを明らかにするために意訳はせず逐語訳にしつつも、ある程度は日本語らしい表現になるよう意識して。
そのような対応で、私は頭から読んで理解する方法を身につけつつ、試験も何とかクリアしてきました。
先日読んだ辻谷さんの著作。
外国語を読んで分かることと、訳せることは違うと言っています。
これまで私がやってきた、「まずは逐語訳。その後それを見直して日本語らしい表現にする」というアプローチについて(辻谷さんの著作では「ダメ」と書かれているのですが)、この数日思っていたことは
本当は日本語らしい表現になりきっていないのだが、自分は外国語で読んで既に意味が分かっているので、その中途半端な日本語を読んでもそれに気が付かない
のではないかということです。
独りよがりの訳になっていたのではないかと。
金融イタリア語や金融フランス語の和訳の記事をメルマガに書いていた頃は、訳文を妻に読んでもらって日本語らしさを確認してもらっていましたが、どうしても自分では中立には評価できないのではないかと思います。
また、辻谷さんの本に、「そのような和訳しか作っていないと、それがパターン化してしまい、その訳文のような日本語が来ないと、英語訳ができなくなってしまう」というようなことが書かれていました。
すなわち、外国語と、逐語訳の変な翻訳調日本語との間の行き来しか出来なくなるということです。
一旦外国語で表現された内容を脳のスクリーンに映し、外国語の形には全く引っ張られず、日本語として自然な表現にする。
このトレーニングを通じて、逆方向の、自然な日本語から自然な外国語への翻訳もできるようになるのでしょう。
9/22 辻谷さんの翻訳お試し講座に出てきます。
今日の丸ノ内線 アナグラム
俵屋宗達、尾形光琳、酒井抱一の風神雷神図屏風が一堂に展示され壮観です。
ゆったりとした展示でお薦めです。
たどり着く途中の丸ノ内線
赤坂見附(あかさかみつけ)
朝、カッカ見つけ
→蝉が好きか?/君がせかす
偏食 → へくしょん
(好き嫌いすると風邪を引きやすくなります)
言語スイッチの切り替え
イタリア語の「ドリトル先生航海記」を読み終えた次の日から、英語の「1984年」を読み始めました。
最初の日は寝不足気味でスピードが上がらず、そのまま電車でうつらうつら。
二日目もあまりスピードが上がりません。
外国語の間ですぐには切り替わらないと言うことかも知れません。
確かに「話す」という場合は、調子が出てくるのに時間がかかります。出張しても一日目の夕方くらいからスピードが上がってきます。
でも、「読む」というのはインプットです。同じインプットの「聞く」に於いては、外国語の間での切り替えに不便を感じません。
考えられるのは
・「聞く」においては、音読のスピードを超えることはないが、「読む」に於いてはスピードが音読を超えるので、切り替えがうまく行っていないことが表に出る。
・「聞く」に於いては、読み手/話し手が一定のスピードを維持してくれるが、「読む」の場合は自分でスピードを上げなければならない。このとき、リズムのタイプが変わることで、「リズムに乗れず」スピードが上がらない。
というようなことです。
もちろん、直前の「ドリトル先生航海記」と「1984年」の内容/表現の難易度の差についても考慮しなければいけません。
二冊の本が同じレベルだという判定も難しいので、次回は、ハリーポッター(3)イタリア語から、ハリーポッター(4)フランス語を経て、ハリーポッター(5)英語などとやってみたいと思います。